東京高等裁判所 昭和45年(秩ほ)1号 決定 1970年1月27日
主文
本件抗告を棄却する。
理由
<前略>
所論は、原決定は、本人が「犯罪的」という言葉を使用している点をとらえて「暴言」と解しているが、その「犯罪的」という言葉自体は破廉恥的要素を少しも含んでいないのであるから、その言葉を使用したからといつて、原決定がいうように、その発言が「暴言」にあたるものとは、とうてい解せられないだけでなく、そのとき本人は自己の思想的立場を表現したものであつて、その表現をするにあたつて使用した「犯罪的」なる言葉は、本人の思想と抜きがたく結びついて、他の用語ではその思想が適切に表現できない関係にあつたのであるから、若しその言葉を使用してなされた本人の発言が制裁の対象となるということになると、憲法第一九条で保障されている思想および良心の自由に対し不当な圧力を加える結果となるので、その意味においても、「暴言」と解することは相当でなく、また仮に本人の発言が「暴言」にあたり、そのために裁判の威信が害されたとしても、その威信は法文にいう「著しく」という程度にまでは害されていないのであるから、原決定には法律の解釈、適用を誤つた違法が存するというものである。
しかしながら、原決定が本人に対し監置五日の制裁を科するにあたり確定した事実によると、本人は昭和四五年一月一二日東京地方裁判所刑事第七〇一号法廷で開かれた本人ほか一六名に対する兇器準備集合等被告事件の第二回公判期日において、公訴事実に対する意見の陳述をするに際し、大要「本件公訴事実はデッチあげであり、逮捕、勾留、公訴提起は我々の正当な行動の圧殺をはかつてなされたものである。」との趣旨の発言に引続き「裁判そのものが手続約な意味でも、形式的に見ても、内容的に見ても、あるいは人間的に見ても、全くまちがつている。あるいはその存在基盤そのものが、もはや歴史的に見て極めて犯罪的なものである。」などと発言し、右「犯罪的」なる暴言に対し、裁判長が注意を与え、取消しを勧告したのに、これに応ぜず、もつて裁判の威信を著しく害したものであるというのであつて、本人は裁判長から公開の法廷において、右「犯罪的」という用語が暴言にあたると注意され、その取消しを勧告されたにもかかわらず、これに応じなかつたというのであるから、右「犯罪的」なる発言に先だちなした本人の発言内容をもあわせて考察するときは、それらの言動が法廷等の秩序維持に関する法律第二条第一項にいう暴言少くとも不穏当な言動であつて、しかもそれらの言動により裁判の威信を著しく害した場合にあたると解せられるのであつて、これと同趣旨のもとに本人の前記所為について右法条を適用した原決定は相当であり、原決定には所論法律の解釈、適用を誤つた非違は、ごうも存しない。所論は、「犯罪的」という言葉自体には、破廉恥的な意味合いが少しも含まれていないのであるから、その言葉を使用したからといつて、原決定のように、その発言が「暴言」にあたると解することはとうてい納得できないと主張するけれども、たとえ使用した言葉自体が倫理的に非難さるべき意味合いをもつていなくても、他の言葉とのつながり方その他その言葉が使用された時、所、ふんい気等のいかんによつては、裁判の威信を著しく害し、前記法条にいう「暴言」となることがありうるのであり、本件はまさに右の場合に該当するのであるから、所論はとうてい採用できない。また所論は、自己の思想的立場を表現する際に用いた用語をとらえて、制裁を科することは、思想、良心の自由に対し不当な圧力を加えることとなるので、「犯罪的」なる言葉を使用したことをもつて、「暴言」と解するのは相当でないと主張するけれども、右の言葉を「暴言」と解したからといつて、所論のように、思想、良心の自由に対し不当の圧力を加えたものとはとうてい解せられないのであるから、所論は採用できない。なお所論は、仮に本人の発言が「暴言」にあたるとしても、裁判の威信を「著しく」害したことにはならないと主張するけれども、原決定の確定した事実に徴すると、前記のとおり、本人の暴言少くとも不穏当な言動があり、そのため裁判の威信を著しく害したと認めるを妨げないのであるから、所論は容認できない。論旨は、理由がない。
よつて、本件抗告は理由がないから、法廷等の秩序維持に関する規則第一八条第一項により、これを棄却することとして、主文のとおり決定する。(山田鷹之助 目黒太郎 中久喜俊世)